御祭神:神功皇后

日本第一安産守護之大神と称せられる神功皇后を主祭神とし、仲哀天皇、応神天皇ほか6柱の神をお祀りする。日本武尊の第二皇子である仲哀天皇の后、応神天皇の生母。

神功皇后は、当時王権に抵抗していた九州熊襲の征伐に随伴、仲哀天皇自ら親征されるもはかばかしからず、不幸陣中で崩ぜられた。そこで皇后は、竹内宿禰と議し、熊襲よりも先ずその後押しを断とうとされ、御懐胎の御身ながら、朝鮮半島へ自ら兵船を進められた。間もなく筑紫に凱旋され、お生まれになったのが誉田別命、即ち応神天皇である。皇后は初めての摂政として、天皇を助けること70年。内は複雑な内紛を処理して、国内の充実を図り、外は国際的主導権を握り、ここに初めて我が国民の民族意識が自覚された。御子、応神天皇は渡来人の技術集団を用い国土を開発、儒教・漢字等を取り入れ文化振興を行い、国家を飛躍的に発展させた。

このように、混沌たる状況の中でも、無事応神天皇を出産し、立派に育て上げられた経緯・功績から「聖母」とも呼ばれ、安産・子育ての神として篤く崇敬されている。

神社由緒

当社は通称「ごこんさん」として古くより地域の人々から親しみをもって呼ばれ、旧伏見町一帯の氏神として信仰を集めている。創建時は不詳であるが、御香宮縁起(三巻)によれば、貞観4年(862)9月9日御諸神社境内より「香」のよい水が湧出する奇瑞により、御香宮の名を清和天皇より賜ったとされている。しかし香椎宮編年記(香椎宮蔵)によれば弘仁14年(823)御祭神神功皇后の神託により、この地に宮殿を修造し椎を植えて神木としたと伝えられている。

室町時代、当社は伏見九郷の荘民等の「一庄同心」という精神的な支えの中心となっていた。天正18年(1590)小田原の北條氏を滅亡させ、天下統一を遂げた豊臣秀吉は、当社に戦勝祈願をなし、太刀(重要文化財)と願文を納め社領三百石を寄進した。文禄3年(1594)秀吉は伏見築城に際して城の鬼門除けの神として城内の艮の隅に勧請した。慶長10年(1605)徳川家康は再び社地を元の地に復し、本殿を造営し秀吉にならって社領三百石を寄進した。元和8年(1622)伏見廃城に先立って、水戸徳川家の初代徳川頼房が伏見城の大手門を拝領、それを当社の表門として寄進した。寛永2年(1625)には、都名所図絵巻五に

御香宮(略)「拝殿南のもん」彫刻等華美なり、伏見の城中にありしをここにうつす

として紹介されている拝殿を紀州徳川家の初代徳川頼宣が建立されたと伝えられている。慶応4年(1868)正月、鳥羽伏見の戦いの際には伏見奉行所に旧幕府軍が拠り、当社は新政府軍(薩摩藩)の屯所となったが、幸にして戦火は免れた。

10月上旬に行われる神幸祭は、伏見九郷の総鎮守の例祭とされ、古来『伏見祭』と称せられ、今も洛南随一の大祭として評判を得ている。

御香水

当社の名の由来となった清泉で「石井の御香水」として、伏見の七名水のひとつに数えられている。平安時代の貞観4年(862)9月9日、境内より水が湧き出し、良い香りが四方に漂い、この水を飲むと病気がたちまち癒えたという奇瑞により、清和天皇から「御香宮」の名を賜った。徳川御三家の藩祖である頼宣、頼房、義直の各公は、この水を産湯として使われたと伝わる。絵馬堂には御香水の霊験説話を画題にした『社頭申曳之図』が懸っている。明治以降、涸れていたのを昭和57年復元、昭和60年1月、環境庁(現、環境省)より京の名水の代表として『名水百選』に認定された。

硬度はミネラル分を程よく含んだ中硬水で、地中150メートルから汲み上げていることから年間を通して17度前後の水温を保っている。この水は霊水として信仰され、病気平癒にご利益があると言われ多くの方に好まれている。更に多数の茶道、書道の関係者にも利用されている。

本殿(重要文化財)

慶長10年(1605)、徳川家康の命により京都所司代坂倉勝重を普請奉行として着手建立された。 (本殿墨書銘による)大型の五間社流造で屋根は桧皮葺(ひわだぶき)、正面の頭貫(かしらぬき)、木鼻(きばな)や蟇股(かえるまた)、 向拝(こうはい)の手挟(たばさみ)に彫刻を施し、全て極彩色で飾られている。また背面の板面の板壁には五間全体にわたって柳と梅の絵が描かれている。 全体の造り、細部の装飾ともに豪壮華麗でよく時代の特色をあらわし桃山時代の大型社殿として価値が高く、昭和60年5月18日重要文化財として指定された。 現社殿造営以降、江戸時代社殿修復に関しては、そのつど伏見奉行に出願し、それらの費用は、紀伊、尾張、水戸の徳川御三家の寄進金と氏子一般の浄財によって行われた。 大修理時には、神主自ら江戸に赴き寺社奉行に出願して徳川幕府直接の御寄進を仰いだ例も少なくなかった。平成二年より着手された修理により約390年ぶりに極彩色が復元された。

拝殿(京都府指定文化財)

寛永2年(1625)、徳川頼宣(紀州徳川家初代藩主)の寄進による。桁行七間、梁行三間、入母屋造、本瓦葺の割拝殿。正面軒唐破風は、手の込んだ彫刻によって埋められている。特に五三桐の蟇股や、大瓶束によって左右区切られている彫刻は、向かって右は「鯉の瀧のぼり」、即ち龍神伝説の光景を彫刻し、左はこれに応ずる如く、琴高仙人が鯉に跨って滝の中ほどまで昇っている光景を写している。豪壮華麗なこの拝殿は伏見城御車寄の拝領と伝えられている。平成9年6月に半解体修理が竣工し極彩色が復元された。

表門(重要文化財)

元和8年(1622)、徳川頼房(水戸黄門の父)が伏見城の大手門を拝領して寄進した。三間一戸、切妻造、本瓦葺、薬医門、雄大な木割、雄渾な蟇股、どっしりと落ち着いた豪壮な構えは伏見城の大手門たる貫録を示している。特に注目すべきは、正面を飾る中国二十四孝を彫った蟇股で、向かって右から、楊香、郭巨、唐夫人、孟宗の物語の順にならんでいる。楊香という名の娘が猛虎より父を救った。郭巨は母に孝行するために、子どもを殺して埋めようとした所、黄金の釜が出土、子どもを殺さずに母に孝養を尽した。唐夫人の曽祖母は歯が無かったので、自分の乳を呑ませて祖母は天寿を全うした。孟宗は寒中に病弱の母が筍を食べたいというので、雪の中を歩いていると彼の孝養に感じて寒中にも関わらず筍が出てきた。以上、中国二十四孝の物語の蟇股である。また、両妻の板蟇股も非常に立派で桃山時代の建築装飾としては、二十四孝の彫刻と併せて正に時代の代表例とされている。明治39年には重要文化財に指定された。