創建年は不詳。日本第一安産守護之大神として広く崇められている、神功皇后を主祭神として仲哀天皇応神天皇他六柱の神を祭る。 初めは、『御諸神社』と称したが、約1150年前の平安時代貞観四年(八六二)九月九日に、この境内から「香」の良い水が涌き出たので、 清和天皇よりその奇端によって、『御香宮』の名を賜った。豊臣秀吉は天正十八年(一五九〇)、願文と太刀(重要文化財)を献じてその成功を祈り、 やがて伏見築城に際して、城内に鬼門除けの神として勧請し社領三百石を献じた。その後、徳川家康は慶長十年(一六〇五)に元の地に本殿を造営し社領三百石を献じた。 慶応四年(一八六八)正月、伏見鳥羽の戦には伏見奉行所に幕軍が據り、当社は官軍(薩摩藩)の屯所となったが幸いにして戦火は免れた。 十月の神幸祭は、伏見九郷の総鎮守の祭礼とされ、古来『伏見祭』と称せられ今も洛南随一の大祭として聞こえている。
当社の名の由来となった清泉で「石井の御香水」として、伏見の七名水の一つで、徳川頼宣、頼房、義直の各公は、 この水を産湯として使われた。絵馬堂には御香水の霊験説話を画題にした『社頭申曳之図』が懸っている。明治以降、涸れていたのを昭和五十七年復元 、昭和六十年一月、環境庁(現、環境省)より京の名水の代表として『名水百選』に認定された。
(国指定重要文化財)
慶長十年(一六〇五)、徳川家康の命により京都所司代坂倉勝重を普請奉行として着手建立された。 (本殿墨書銘による)大型の五間社流造で屋根は桧皮葺(ひわだぶき)、正面の頭貫(かしらぬき)、木鼻(きばな)や蟇股(かえるまた)、 向拝(こうはい)の手挟(たばさみ)に彫刻を施し、全ての極彩色で飾っている。また背面の板面の板壁には五間全体にわたって柳と梅の絵を描いている。 全体の造り、細部の装飾ともに豪壮華麗でよく時代の特色をあらわし桃山時代の大型社殿として価値が高く、昭和六十年五月十八日重要文化財として指定された。 現社殿造営以降、江戸時代社殿修復に関しては、そのつど伏見奉行に出願し、それらの費用は、紀伊、尾張、水戸の徳川三家の御寄進金を氏子一般の浄財でもって行われた。 大修理時には、神主自ら江戸に下って寺社奉行に出願して徳川幕府直接の御寄進を仰いだ例も少なくなかった。
平成二年より着手された修理により約三百九十年ぶりに極彩色が復元された。
(京都府指定文化財)
寛永二年(一六二五)、徳川頼宣(紀州徳川家初代)の寄進にかかる。桁行七間(けたゆき七げん)、 梁行三間(りょうゆき三げん)、入母屋造(いりもやづくり)、本瓦葺の割拝殿(わりはいでん)。正面軒唐破風(のきからはふ)は、 手の込んだ彫刻によって埋められている。特に五三桐の蟇股や大瓶束(たいへいづか)によって左右区切られている彫刻は、向かって右は『鯉の瀧のぼり』、 すなわち龍神伝説の光景を彫刻し、左はこれに応ずる如く、琴高仙人(きんこうせんにん)が鯉に跨って瀧の中ほどまで昇っている光景を写している。 この拝殿は伏見城御車寄(くるまよせ)の拝領と一部誤り伝えられる程の豪壮華麗な建物である。
平成九年六月に半解体修理が竣工し極彩色が復元された。
(国指定重要文化財)
元和八年(一六二二)、 徳川頼房(水戸黄門の父)が伏見城の大手門を拝領して寄進した。三間一戸(三げん一と)、切妻造(きりもやづくり) 、本瓦葺、薬医門(やくいもん)、雄大な木割、雄渾な蟇股、どっしりと落ち着いた豪壮な構えは伏見城の大手門たる貫禄を示している。 特に注目すべきは、正面を飾る中国二十四孝を彫った蟇股で、 向かって右から、楊香(ようこう)、敦巨(かっきょ)、唐夫人、孟宗の物語の順にならんでいる 。楊香という名の娘が猛虎より父を救った。敦巨は母に孝行するために、子供を殺して埋めようとした所、 黄金の釜が出土、子供を殺さずに母に孝養を盡した。唐夫人の曽祖母は歯が無かったので、 自分の乳を飲ませて祖母は天寿を全うした。孟子は寒中に病弱の母が筍を食べたいというので、 雪の中を歩いていると彼も孝養に感じて寒中にも拘らず筍が出てきた。以上、中国二十四考の物語の蟇股である。 また、両妻の板蟇股も非常に立派で桃山時代の建築装飾としては、二十四考の彫刻と併せて正に時代の代表例とされている。 (伏見城回顧へ)
石庭拝観料:大人200円・学生150円
休館日:神社行事により、臨時休館有
拝観時間:朝9時から16時まで
今から三百五十年ほど前、小堀遠州が伏見奉行に命ぜられた時、 奉行所内に作った庭園の石を戦後移して作ったものである。小堀遠江守政一が元和九年(一六二三)、伏見奉行に着任すると 、庁舎の新築を命ぜられた。寛永十一年(一六三四)七月、上洛した三代将軍家光をここに迎えた時、立派な庭園に感心して褒美として5千石加増、 一躍大名に列した。伏見奉行所の庭園は遠州公にとって出世の糸口でもあった。明治時代以降、陸軍工兵隊、米軍キャンプ場と移り変わり、 昭和三十二年市営住宅地になったのを機に当社に移築した。庭園の手水鉢には、文明九年(一四七七)の銘があり在銘のものとしては非常に珍しいらしい。 また、後水尾上皇が命名された『ところがらの藤』も移植、その由来碑も建てている。この庭園は中根金作氏(中根造園研究所長)の作庭にかかる。