伏見は西国から、京へ上がる交通上の要衝にあたり、かつ山科を経て東海道の出口を扼する戦略上の要地である。
而も東方丘陵地帯は、古来風光明媚の地として知られた上、自然の要害を成している。
政、戦両略に長けた秀吉は、果たしてここに目をつけた。すなわち文禄元年三月、九州から兵船を進発させてから早速伏見築城の計画を進め、
秀吉自ら伏見に来り、実地検分を了えた。建設工事にかけては天才的な秀吉は、二十五万の人夫を適当に部署し、
諸大名に工事を分担せしめ、また自ら指揮監督に当たったから、自然、工事は諸大名の競争となり着々として進捗した。
文禄三年十月には、主要な建物が完成したので、秀頼は、淀城から移って来た。それから付属建築が次々に建設されて、文禄五年六月に完成したのである。
この伏見築城の目的は、もちろん秀吉の威勢を天下に誇示するためであり、兼ねて優勢な大名の勢力削減政策でもあったが、
それ以上に、わが国威を諸外国人に目の当たりに示さんとの意図に出たものと解せられる。そこで、明の講和使節を謁見するため、
城内の普請は最大の規模と、最大の善美を尽くした。たまたま文禄五年七月十二日に伏見を中心として大地震が起こった(翌月慶長と改元)相当被害があったが、
早速破損箇所を修理して、九月三日御花畠山荘(元鞄克R城)に於いて講和使節を謁見し、国書を読ましめた。
その最後のところで、「特封爾為日本国王」と読み上げたので、秀吉は怒髪天を衝き、直に使節を追い返して、再び兵を進めたのである。
しかし今度は戦局はかばかしからず、しかもその最中慶長三年八月十八日、蓋世の英雄秀吉も病には勝てず、あわれ六十三歳を一期として、
露と落ち、露と消えにしわが身かな難波のことも夢のまた夢
の辞世を残して、この城中に果てたのである。
かくして秀吉の天下もわずか二十年足らずで終末を告げ、伏見城は徳川家康の手に渡った。
慶長五年、家康が会津の上杉景勝を討ちに出た不在を窺って、石田光成は七月十九日、兵四万を以って、ここを囲んだ。
城将鳥居元忠総勢僅かに千五百。頑強に防戦したが、衆募敵せず、八月一日今はこれまでと終に自尽し、ここに城は陥つた。
幕末の志士藤出東湖の詩に「或守伏見城一身当万軍」とは、その壮烈を謳ったのである。
また桃山御殿の血天井といって名高い東山の養源院や鷹ヶ峰の源光庵、或いは賀茂の正伝寺の天井は、この時の床板を用いたものという。
然るに翌九月、関が原の合戦で豊臣勢は一敗地に塗れ、天下の実権は完全に家康の手に握られた。
その後、伏見城は一部補修されたが、元和九年七月家光が三代将軍宣下の式をここで上げたのを最後として、
「一木一石たりとも残すべからず」との厳命により完全に取り毀されたのである。その建物の一部を京洛の社寺に寄進した。
現在、高台寺の薬医門。豊国神社の唐門。南禅寺金地院の方丈。西加茂の正伝寺の本堂、唐門および北門。御香宮の拝殿及び、表門等みな伏見城の遺構で、
当時の豪壮華麗な様を如実に物語っている。
その後城址に土地の者が、桃を植え、春ともなれば全山花におおわれて、一躍桃の名所となり、いつとはなしに「桃山」の地名が生まれたのである。
城跡あとやもゆる火もなく桃の花 舜福
我が衣にふしみの桃のしづくせよ 芭蕉
大名の字を桃のはたけかな 正秀
伏見城当時は城廊の周囲に諸大名が屋敷を構えていたので、お城取り払いのあと、大名の名前をそのままそこの地名にしたのである。
たとえば、当社付近だけでも、松平筑前、羽柴長吉、毛利長門、福島太夫、井伊掃部、筒井伊賀、金森出雲、長岡越中、水野左近、
永井久太郎等小字まで上げると百五十余りも数える事が出来る。
明治天皇は、ご幼少の頃から太閤記をご愛読なされ豊公の偉業を御嘉賞遊ばされて、
明治元年、豊公を祀るべきとをご沙汰あらせられた。且つこの桃山を殊の外お気に召され、早く御料地として、お買い上げになられた。
明治四十五年七月三十日、崩御せらるるやこの桃山に御陵を定められたのも、一にご生前からのお思召しによると拝了する。
さらに、大正三年四月十一日崩御遊ばされた昭憲皇太后の御陵もまたここに定められた。
ちなみに、明治天皇桃山陵は、旧本丸の南端にあたり、昭憲皇太后伏見桃山東陵は旧名護屋丸の南端にあたる。(伏見桃山御香宮略記より)
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